絵本に感じたたしかな重み
絵本の中のふたつの世界
「Zlatovlaska(金髪姫)」(Albatros社、カレル・ヤロミール・エルベン作、アルトゥシ・シャイナー絵)。チェコの昔話を収集したことで知られるエルベンの昔話集。読み物の中に、味わい深い、そして子どもにはぞっとするような絵が多く入っている。中でも、子どもの時に見た「オテサーネク」という話の絵は、大人になっても忘れられないほど強い印象を私に残した。

「チェコの絵本をいつか翻訳して日本に紹介したい」
中学生ぐらいの頃から、そう心のどこかに決心のようなものができて、すでに長い歳月が流れていた。その夢がかなったのは、ちょうど40歳になった年だった。日本ではロングセラーでおなじみのズデネック・ミレル氏の絵による「もぐらくん」の絵本が、約40年ぶりに日本で出版されることになり、その絵本の翻訳を手がけた。

最初にチェコの絵本に出会ったのは8歳の時だった。親の都合で住むことになったチェコスロヴァキアという国は、絵本の宝庫といってよかった。最初にチェコの絵本を手で触れたときの驚きを、今でもありありと思い出す。

絵本の中のふたつの世界
「Rikejte si pohadky(おとぎばなしをしましょう)」「Rikejte si se mnou(こえにだしてよみましょう)」(Albatros社、フランティシェク・フルビーン作、イジー・トゥルンカ絵)。子ども向けの詩を読みながら、トゥルンカの挿絵を見ていると不思議なほど想像力をかきたてられる。2002年ごろプラハのブックカフェで見つけ、ひとめぼれして購入した。翻訳本が出版された後、驚いたことに親の山荘の押し入れから、少し傷んだ同じタイトルの絵本2冊が出てきた。無意識のうちに、昔読んだ絵本を選んでいたのだろうか。

チェコの友達の家へ遊びに行ったときのこと。子ども部屋にもちゃんと本棚というのがあり、そこに分厚くて大判の絵本や、ボードブックが少なくとも20冊くらいは並んでいた。
「これ、面白い本なのよ」
まだチェコ語ができない私に、友だちは大きな絵本を引っ張り出すと開いて見せてくれる。その絵本を自分の膝にのせると、ずっしりした重さが伝わった。ページをめくると、大人が読むのかと思うほど字がびっしり。それなのに、何ページかに1枚は深い色合いの絵が入っていて、日本の絵本とはだいぶ違うなあ、という印象を受けた。

この国の言葉がもつ“特別な響き”
絵本の中のふたつの世界
「Detem(こどもたちへ)」(Klub mladych ctenaru社、ヨゼフ・ラダ作、絵)。270ページ余りの分厚い絵本。ラダの故郷の牧歌的な風景とその四季や、家畜や森の動物達の表情には大人も思わず微笑んでしまう。絵、詩、物語も入り、チェコの風物詩がわかる絵本。

「金髪姫」「こいぬとこねこはゆかいななかま」「ほたるっこ」(*1)の絵本はどこの家にもあった。
大判の絵本を、友だちは抱えるようにしながら読んでくれたり、あらすじを話してくれるのだった。チェコの昔話には森がよく登場し、お城を舞台にした美しいお姫様と王子様の挿絵は女の子の心を浮き立たせ、よく絵にも描いて遊んだものだ。   
ヨゼフ・ラダの絵本も人気があった。人間の言葉を話したり、人間のようにふるまう動物が登場する「黒ねこミケシュの冒険」や「きつねものがたり」は日本語にも訳されていたので夢中で読んだ。動物たちの大人びたもの言いや、知恵があって人間をあっといわせる姿に共感し、チェコの風刺のきいた物語を楽しんだ。
チェコの絵本を読んで思い出すのは、子どものときチェコの大人から話しかけられた言葉が、特別な響きを持っていたことだ。絵本の文章でも、「ねえ、子どもたちはどう思う?」や「ねえ、こんなことってあるでしょうか?」というように、子どもの読者に話しかけるような表現がときどき見かけられる。子どものころ、チェコのおばさんやおじさんにギュッと抱きしめられて、「かわいい私のひよこさん」や、「あなたは私のこひつじちゃん」など、動物に例えて言われた言葉は温もりがあった。
私がチェコに住んだ期間は長い人生から見ると、たった3年足らずのこと。でも、絵本の翻訳をしたい、という夢をあきらめずにいられたのはなぜだろう。
(*1)
「金髪姫」カレル・ヤロミール・エルベン文、アルトゥシュ・シャイナー絵
「こいぬとこねこはゆかいななかま」ヨゼフ・チェペック文と絵
「ほたるっこ」ヤン・カラフィアート文、イジー・トゥルンカ絵

チェコを離れて
絵本の中のふたつの世界
親しく行き来していたノヴァーコヴァーさん夫婦の長女、ヤルカの結婚式に招かれた。私の後ろに立っているのが遊び仲間で1学年上のヤナ。
絵本の中のふたつの世界
2度目の引越しの時、小学校の先生夫妻やピアノの先生の家族、母の大学の同級生などが手伝いに来てくれた。ローラーでの壁塗りも、この後ノヴァークさんが完璧にやってくれた。
絵本の中のふたつの世界
家の前の庭で撮った妹とバビチカ(チェコ語でおばあさん)の写真。バビチカはピアノの先生のお母さんで、母が学生になって忙しくなったので、泊まりこみで私達の世話をやいてくれた。バビチカは子どものようなところがあり、妹との会話ははたで聞いていても面白かった。バビチカが時々本気になって妹に反論していたことを憶えている。

11歳になる少し前、私はプラハに残る家族と別れてひとりで帰国することになった。
8歳の時から、私はチェコの小学校へ、妹はチェコの保育園、母は大学へ通い、家ではチェコのバビチカ(おばあさん)と毎日過ごした。そんな環境の中、いつしか妹と話すのもチェコ語の方が楽になっていた。週に1度だけ日本大使館で補習授業があったが、国語はもとより理科、社会、算数さえもチェコと日本では学習のプログラムがだいぶ違った。チェコの小学校の夏休みは丸々2ヶ月もある上、宿題も出ない。私がのびのびし過ぎて、日本語の勉強に相当遅れを取っていることが、親の目には明らかだった。
中学に上がる前に何とかしなければと思った父の意向で、同じ年頃のいとこが3人いる父の郷里の実家に預けられることとなった。

1973年1月、父がパリの国際会議の取材に行くのに合わせて、私の帰国日が決まった。父とパリで2,3泊した後、いよいよ空港まで来た父と別れることになった。チェコから抱いてきた赤いキツネのぬいぐるみを、さらに強く抱きしめて客室乗務員に付き添われて飛行機に乗り込んだ。
抱いていた赤いキツネのぬいぐるみは、ノヴァーコヴァーさん夫妻から私と妹が贈られたもので、もとは大きいキツネが私、小さいキツネが妹のだった。私の帰国が決まると、妹と私はキツネを交換することにして、お互いの名前をつけたのだった。