冬のビロード革命
ヴァーツラフ広場の聖ヴァーツラフ騎馬像。民族の危機が訪れた時によみがえり、眠っている騎士達を起こして外敵を倒す、という伝説が語りつがれている。広場は、数々の歴史の舞台となった。
冬のビロード革命
「一党独裁の終焉」と書かれたポスターから、自分の主張を小さな紙に書いたものまで、所狭しとヴァーツラフ像の周辺に張られていた。マイナス10度を下回る中、人々は熱心に読み続けた。
中央の子どもがベルリンの壁の破片を高く掲げている。

私は、いわゆる「プラハの春」の事件について記憶がない。「人間の顔をした社会主義」を目指していた民主化運動が最高潮に達した夏、チェコスロヴァキアの運命を決定的に変えた出来事がある。
1968年8月20日、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍が首都プラハにまで戦車で進攻し、チェコスロヴァキアは占領された。
人々の希望が無残な形で踏みにじられたこの事件を、後に記録映画で見るたびに、自分の胸が締めつけられるような思いをした。だが、私がチェコスロヴァキアに住むことになったきっかけを考えると、どうしてもこの事件に行き着いてしまうのだった。世界を震撼させたこのニュースで、チェコスロヴァキアは世界の注目の的となり、ロシア語をやっていた父が、新聞社のプラハ支局を開設するために1970年の2月にチェコへ赴任した。それから遅れること半年余りの8月。母と小学生の私と3歳の妹がプラハへ到着して、チェコでの暮らしが始まったのだった。

チェコ”という体験
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「暴力反対」の絵。子どもの写真を貼り「私達の子ども達によりよい未来を」「リトアニアはあなた達を支援します」「END」などに交じり、第一共和国のマサリク大統領、「プラハの春」の事件で解任されたドゥプチェク第一書紀の写真も。

言葉も何もわからず入ったチェコの小学校。近所のおじさんやおばさん、友達に大事にされて、何の屈託もなくチェコの文化を吸収して育った70年代。そして、ひとりでプラハへ留学して厳しい現実を体験した80年代の半ば。西ベルリンで遭遇したベルリンの壁崩壊から、雪崩を打つようにチェコスロヴァキアに波及した89年の民主化運動。それを目の当たりにして思ったのは、私はチェコという国と、とことん付き合うことになるだろう、ということだった。皮肉にも「プラハの春」の事件がなければ、私はチェコという国と関わることはなかっただろう。私の人生に多大な影響を与えた国チェコの運命は、もはや他人事では済まされなくなっていたのである。

壁崩壊後のドイツからチェコスロヴァキアへ
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ヴァーツラフ像のすぐ前では、無数のロウソクが灯され、花束が手向けられていた。
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ロウソクを取り出して供える女性。溶けたロウソクに覆われて、下のコンクリートの色は見えなくなっていた。
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老いも若きも、ヴァーツラフ像の周辺に集まってきて、張り紙を読んでいく。手前の女性は胸にトリコロールのバッジが。

西ベルリンに暮らし始めて3ヶ月目の1989年11月9日、東西冷戦の象徴であるベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの熱狂ぶりを世界に報じた。その歴史的大事件は、隣国チェコスロヴァキアの足元をも揺さぶっていた。少しずつ改革が行われてきたポーランドやハンガリーに比べると、チェコスロヴァキアは出遅れていた。チェコスロヴァキアと同じように古い体質を維持していた東ドイツの旧共産政権が、ベルリンの壁崩壊により倒れたことは、チェコ人にもショックだったに違いない。チェコスロヴァキアで連日大規模なデモが起きているとドイツのテレビや新聞で報じられると、私は語学学校へ通いながらもチェコのことが、気がかりでならなかった。
11月の末に、日本から友人のフォトジャーナリストYさんがベルリンへ取材に来た。プラハへも行くというのを聞いて、私達もプラハまで一緒に行くことに決めた。それならプラハからブダペストまで足を伸ばそう、と合計4泊5日の短い旅程を立てた。西ベルリンのハンガリー大使館と、東ベルリンのチェコスロヴァキア大使館を1日でまわってビザを取ると、2日後には東ベルリンからプラハ行きの夜行列車に乗り込んだ。

夜行列車に揺られながら、チェコで急速に広がった大規模デモについて考えていた。9月にプラハで泊めてもらった家の人が、旧友マルティンと話していたことがふと頭をよぎった。 「何度も投獄されているヴァーツラフ・ハヴェル氏を支援するデモが週末にあります」と“デモ”と“ハヴェル”の名前を出していた。日本の書籍で、チェコスロヴァキアの人権擁護運動「憲章77」について読み、提唱者のひとりが劇作家のヴァーツラフ・ハヴェル氏だと知ったが、私の留学していた84年から86年まで、その名をチェコ人から聞くことは一度もなかった。あの話は、今日の大規模デモへとつながる導火線だったのだろうか。そんなことを考えながら眠りについた。

生き続ける英雄
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議論が白熱して、相手を説き伏せようとする老人。
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自分の主張を聞いてもらうために、資料を手に来る若者も。
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ヴァーツラフ像の全体像と背後の国立博物館。

翌朝プラハ本駅に着くと、さっそく町の中心部ヴァーツラフ広場に出ることにした。地下鉄から地上に出てみると、細長い広場を高い位置から見下ろす聖ヴァーツラフの騎馬像の前に人だかりがしている。近づくにつれ胸が高鳴った。像の台座には、びっしりと紙や写真が張られていた。低い場所にはロウソクの火が灯され、そのロウが幾重にも流れて模様になっていた。ロウソクと共に、数え切れない程の花束が手向けられていた。人々は、ヤン・パラフを忘れていないのだと思った。民主化運動「プラハの春」が打ち砕かれた翌年の1月、聖ヴァーツラフ像の前で抗議の焼身自殺をしたのが、学生のヤン・パラフだった。昼間なのに頭が痛くなるような極寒の中、老いも若きも集まっていた。ヴァーツラフ像の背後には、手にビラを持って配る若い男性がひとりいる。その若者に近づき意見を言い始めた老人がいた。遠巻きに聞く人が次第に集まってきていた。
私はカメラのファインダーを覗くと、どこかで見たような光景だと思った。体験はしていないのに、「プラハの春」事件の時の映像と重なって見えたのだった。「プラハの春」から21年。ヴァーツラフ像の周辺に、トリコロールカラーのチェコスロヴァキアの国旗が何枚も掲げられていた。

途中からYさんと別行動をとり、父がプラハ支局にいた時に2代目アシスタントを務め、後に現地記者となったペトルに会いに行くことにした。チェコの今の状況を聞けるのでは、と考えたからだ。留学時代は時々支局に行っては新聞をもらっていた。ドアが開くと、
「どうもどうも。忙しいさなかに、よくいらっしゃいました」と流暢な日本語ながら、チェコ人らしく皮肉が込められた挨拶でおかしくなった。私がチェコの状況を聞くと、
「東京から記者が何人も来ていて、てんてこ舞いですみません」とペトルはわびた。ドア越しに、日本人記者達の緊迫した話声が聞こえてくると、邪魔になっては悪いとの思いで、支局を後にした。

変化
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カレル大学哲学部内では、希望者に情報を提供していた。「一党独裁の終焉」のポスターやチラシが、ガラス窓を覆いつくす。
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カレル大学哲学部内で見られた討論風景。

外の気温は、軽くマイナス10度を下回っていた。100メートルも歩くと寒くてたまらず、目が喫茶店を探し出す。店を見つけると、とりあえず温かい物を飲み、体が温まると再び歩き出した。
商店のウインドーには、様々なビラが張られていた。中でも「OF」と書かれた物はあらゆるところに張られていた。「O」の中には、ピースマークのように目や口が書き込まれ、笑顔になっている。それは、ハヴェルが中心となっていたObčansky Fórum(市民フォーラム)のマークだということがわかった。よく見ると、通りを行く人で、このバッジをつけている人が多い。ビラには、「労働者、学生諸君、ストを!」と「Havel na hrad! ハヴェルを城へ!」(フラッチャニー城に大統領官邸があるため、「ハヴェルを大統領に!」の意味)と、強い呼びかけの言葉が踊っていた。まっすぐ前を見つめて足早に歩く人。寒い中、立ち止まって熱心にビラを読む人。今まで見たこともないような希望の光が、その目に見てとれた。

私達夫婦はマルティンのアパートに泊めてもらった。マルティンは、日本のテレビ局と一緒に取材をしていて忙しかったが、帰宅すると興奮してチェコスロヴァキアが置かれた状況を日本語で語った。

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11月17日、学生がロウソクと花を持って行った平和なデモを、機動警察が暴力で阻止しようとし大勢のけが人と逮捕者が出た。その時の写真と抗議文。平和な行進をしていた学生と対照的に物々しい警備の写真を見て背筋が凍る。
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11月17日の学生デモが行われたナーロドニー通りを歩き、留学時代に時々ジャズを聴きに行ったレドゥタの前で記念撮影。“21:30〜ジャズフォーラム”という予告なので、討論会が開かれたものと思われる。後に、アメリカのクリントン大統領とハヴェル大統領がこのジャズクラブを訪れて話題になった。

まず、11月17日に行われた学生のデモが発端となったこと。それは、1968年にソ連軍などに抵抗した英雄達を記念して、ヴァーツラフ像の所にロウソクと花を捧げようという平和なデモだった。機動隊がデモを弾圧した際にけが人が続出し死亡説まで浮上したという。その事件に憤った市民が、次第に多くの人がデモに参加し始めたという。私は、昼間にヴァーツラフ像の近くで見たたくさんの花束とロウソクを思い出した。
「“憲章77”のハヴェルが中心になってできた「市民フォーラム」という組織が市民に支持されて、ヴァーツラフ広場で30万人の集会が開かれたんだ。保守派の幹部全員を辞任に追い込んで、とうとう「市民フォーラム」の綱領が発表された。全国にストを呼びかけているところで、演劇人や音楽家達も公演の代わりに討論会などを開いている。今度こそ絶対に!民主化を実現しなくちゃいけない!」“絶対に!”の言葉に特に力が込められていた。

冬の終わり
冬のビロード革命
ビロード革命の翌年1990年の夏、ドイツから再びプラハ。同じようにヴァーツラフ広場に立っても、共産主義時代とは違う解放感が漂っていると感じた。この時の国名は、「チェコおよびスロヴァキア連邦共和国」だったが、後1993年1月にチェコはスロヴァキアと分離・独立する。
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旧市街広場の時計台のところに出現した、巨大オブジェ。なんと、東ドイツの国産車トラバントに4本の足をつけ、黄金に塗られていた。
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1990年の夏に、仕事でヨーロッパに来た父とプラハで落ち合った。1970〜74年の5年近く、共産主義政権下のチェコスロヴァキアを拠点にして東欧を取材していた父は、“ベルリンの壁崩壊”や“ビロード革命”後の国々を見て、なにを感じていたのだろうか。
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70年代に家族ぐるみでお付き合いをしていたノヴァーコヴァーさんご夫妻。家が近所だったので、1歳年上のヤナともよく遊んだ。ビロード革命の翌年に父と訪問するととても喜ばれた。私にとっては、プラハへ行ったら必ず会いたくなるチェコのおじさん、おばさんだった。

翌日、再びYさんと合流して私が留学していたカレル大学へ行くことにした。ちょうどカレル大学哲学部に入ろうとしたとき、斜め前にある「芸術家の家」(現在はルドルフィルム)正面の階段で何か動きがあった。はちまきをして、横断幕を持つ学生達のようだった。何かを叫んでいる。広げた横断幕には、中国の天安門事件に対して抗議と、中国の学生と連帯する、という内容が書かれていた。外国人ジャーナリストが、その様子を写真に撮っていた。学生が逮捕されないかと心配したが、ついに警察は現れなかった。
カレル大学哲学部内の一教室では、学生達が忙しく立ち働いている姿があった。資料を揃え、広報活動に余念がない。ある女子大生と少し言葉を交わした。11月17日のデモの話から今に至る出来事と、これからの展望について尋ねた。
「平和に行われていた学生のデモに対して、許しがたい暴力が振るわれ、国民の怒りの声が挙がりました。集会参加者も増え、全国に波及しています。先のことは未知数ですが、私達の考えをできるだけ広く伝えて、政治の行方を見守りたいと思います」と語った。女子大生の言葉は力強く、何をも恐れない瞳をしていた。私同様に1968年の「プラハの春」事件が記憶にない世代だ。70年代から80年代の一部ではあるがチェコを見てきて、まっすぐに将来を語れる世代が出現したことに、私は心打たれていた。
21年前に挫折した民主化運動「プラハの春」だが、今度こそ本当に“春”が訪れて欲しい、いや絶対訪れるに違いない。凍てつくプラハ中央駅のプラットホームで、祈るような気持ちでいた。チェコで会いたい人の顔が次々浮かんでは消えたが、この旅は先を急がなければならなかった。また、必ずチェコへ戻ってくると心に誓い、ブダペスト行きの列車に乗り込んだ。

12月25日。クリスマス休暇をドイツ北部のローテンブルクの友人宅で過ごしていた私達は、テレビで衝撃的なシーンを見た。ルーマニアのシャウチェスク大統領夫妻が、銃殺刑になった生々しい映像だった。この一件は、東欧革命の最終仕上げとも言われた。

12月29日。チェコスロヴァキアでは、ヴァーツラフ・ハヴェルが大統領に選出された。ルーマニアと対照的に平和裏に行われた革命は、柔らかな布に例えて「ビロード革命」と名づけられた。