1961年8月、東ドイツによって飛び地のような西ベルリン周囲に築かれたベルリンの壁。1989年、木村さんは奇しくも西ベルリンで壁の崩壊に遭遇しました。チェコ留学を終えた、そのわずか3年後のことでした。

西ベルリンでの暮らし
ベルリン1989
西ベルリンの下宿先の女主人のマリオンと小学生の息子セバスティアン(右)。
夫と留学生のアキコさん(左)。日本食が好きなマリオンのために時折たくさん作って一緒に食べることもあった。

西ベルリンのテーゲル国際空港に到着したのは、1989年8月末の肌寒い日だった。チェコ留学を終えて帰国してから3年が経っていた。久しぶりに降り立ったヨーロッパの地がチェコではなくドイツ、というのが何だか不思議な気がした。夫が1年間ドイツへ語学留学することになり、ゲーテインスティトゥートという学校のあるドイツの町の中から、私達は西ベルリンを希望して来たのだった。
語学学校から紹介された下宿は都心に近く、地下鉄とSバーンの駅からも数分という便利な場所にあった。戦前の100平米以上はある広い3LDKのアパートで、その一部屋を間借りし、女主人のマリオンと小学生の息子セバスティアンとの共同生活が始まった。

ベルリン1989
西ベルリンの中心に立つカイザーウィルヘルム記念教会。左の教会は、第2次世界大戦で爆撃を受けたままにしてあり、右は新しく作られた教会。

ほどなくして、私達はマリオンからお茶に呼ばれた。お互いのことについて話すうちにマリオンは、自分が東ドイツの出身であることを語り始めた。東ドイツ人の夫と離婚した後、西ドイツ人と偽装結婚をし、合法的に息子と西ドイツへ出国できたという。驚く私達をよそに、今は近所の子供服店での仕事にも満足しているし、息子と西ベルリンで楽しく暮らせて幸せよと、マリオンはくったくがない。身近な所にすごい体験をした人がいるのは、やはり西ベルリンならではか、とそのとき思った。

陸の孤島・西ベルリン
ベルリン1989
折りたたみ式のベルリンの地図(FALK社1991年版)の付録で、東の都心部。壁の跡は、aの列上から下まで赤いラインで引いてある。ブランデンブルグ門は、b2のブロック左寄り真ん中にある赤い■。ブランデンブルグ門の前にあった壁は、東西ベルリンを分かつ象徴的な場所であった。

ゲーテインスティトゥートの初級クラスに入った私は、月曜日から金曜日まで毎日ドイツ語漬けになり、週末になるとベルリンの東西の町をよく歩きまわった。西ベルリンの地図を広げると、ベルリンの壁がベルリンを東西に分けているのがよくわかった。とにかく壁近くへ行ってみたい、という気持ちでチェックポイントチャーリーとその近くにある壁博物館や、クロイツベルクという移民が多く住む地域へ出かけた。アバンギャルドな絵が壁いっぱいに描かれた場所があった。メッセージ性の強い落書きを読みながら、高さ3メートルはある壁伝いにも歩いた。第2次世界大戦前はベルリンの中心で、最も華やかで活気があったと言われるポツダム広場付近まで来ると、往時の面影は全くなかった。町があったことを想像するのも難しいほどガラーンとした空き地に立って、遠く壁の方を見た。それは、白蛇のようにゆるい曲線を描きながら延びていた。アーティストが、ベルリンの壁をキャンバスに見立てて端から描いていったとしても、白い壁は絵で埋め尽くせない程、長く続いていた。

ベルリンの壁ができたのは1961年の8月に遡る。ある日突然、東ドイツ政府が鉄条網を張り始めたことに始まる。その目的は、表向きの説明と違い、東ドイツから西ドイツへ流出する人をそれ以上増やさないためだったと言われている。後に、堅牢なコンクリートで固められていき、東ドイツ側の国境警備兵が東ドイツからの逃亡者の監視をするようになったのだった。

ベルリン1989
ベルリンの壁が崩壊する前は、西ベルリンから1日ビザを取って東ベルリンへ入国し、美術館が集まるMuseumsinsel(美術館の島)などをよく散歩した。ベルリンの大聖堂と、アレキサンダー広場のテレビ塔をバックに。(1989年9月頃)

私達は時に、1日ビザを取って東ベルリンへ入った。フリードリヒシュトラーセという駅まで、家の近くにあるSバーンの駅から1本で行くことができた。プラハ留学中、東ドイツの友人アンゲリカとこの駅まで来て、ここからひとりで西ベルリンへ渡った思い出のある駅だった。駅構内の検問所でパスポートを見せ、西ドイツマルクを東ドイツマルクに強制両替させられ1日ビザをもらった。恐るおそる東ベルリンに足を踏み入れると、駅前の人気のない様子は以前と同じだった。ウンターデンリンデンからアレクサンダー広場まで歩いた。西ベルリンから来ると、色のない別世界に入ったようだった。派手な広告はなく、売っている物の種類や、町を歩く人の物静かな印象は、数年前とほとんど変わっていない。東ベルリンでは、美術館へ入り、レストランで食事をして、本屋で絵本などを買って1日を過ごした。それでも東ドイツマルクは大抵残り、その使い道に頭を悩ませた。東ドイツマルクは国外に持ち出せなかったからだ。

予兆
ベルリン1989
西ベルリンから東ベルリンへ1日ビザを取って入ると、アレキサンダー広場で集会が行われていた。ブラシと壁塗りのローラーを棒代わりに使っての横断幕。 「内装じゃ不十分。改築(改造)を」と呼びかけている。

ある時、西ベルリンへ戻るのにフリードリッヒシュトラーセ駅までくると、東ドイツマルクが残っていた。駅のそばにキオスクがあったので、お酒を1本買った。ちょっと近道をしようとして柵を乗り越え、駅前の道路を横切ろうとしたそのときだ。「ピピーッ!」というけたたましい笛の音がして、警官がやってきた。交通違反をしたので罰金を払うよう命じられた。お金は使い切ってありませんと夫が言うと、西ドイツマルクでいいと言われた。納得できず抗議をしてみたものの、結局3千円相当の罰金を西ドイツマルクで払うことになった。腹が立ったのと同時に、なぜ東ドイツの人はあそこまで信号を守るのか理解できた。東ドイツは、まだまだ監視の目が網の目のように張り巡らされた社会であった。

ベルリン1989
子どもづれも多く見られる集会だった。女の子が持っているプラカードには絵も描いてあり、「土曜日をお休みにして!」との文字が。
ベルリン1989
デモ参加者の背中に張ってあったのは小さな版画で、よく見るとカタツムリが太陽を目がけて一本道を進んでいる絵だった。絵の中の文字は「勇気を持って」

私たちが西ベルリンに住み始めた時期と前後して、東ドイツの市民がハンガリーやチェコスロヴァキア経由で西ドイツへ大量に流出し始めたというニュースが流れた。10月に入ると、東ドイツ市民がプラハの西ドイツ大使館の壁を乗り越え中へ入る姿や、大使館の庭でろう城している写真が報道された。ライプチヒでのデモも、次第に数万人規模に膨れ上がっていった。
東ベルリンに1日ビザを取って入った10月のある日のこと。アレクサンダー広場で信じられない光景を見た。誰かが拡声器のようなものを持って、市民の集会が開かれている様子だった。手にプラカードを持っている人もいるし、横断幕のようなものを手にしている人もいる。制服を着た警官や軍関係者は見当たらず、混乱はなかった。
プラカードには自由選挙を求める内容や、政治家を風刺する漫画が書いてあり、現政権を批判する内容のものがあった。若い夫婦が、バギーカーを押して子どもづれで来ていた。これまでの東ドイツでは、公共の場で反政府的な発言をするなんてことは、全く想像できないことだった。すぐに警察にしょっ引かれてしまっただろう。茫然として集会に見入っていたが、ハッと我に返って夢中でシャッターを切っていた。
しばらくすると400〜500名ほど集まっていた人が三々五々散って行った。市民運動が、東欧の優等生と言われた東ドイツでも確実に広がりつつあるようだ。何かが少しずつ変わり始めていることを、この日は肌で感じて西ベルリンへ戻ったのだった。

真相はどこに・・・?
ベルリン1989
バギーカーを押して集会に参加していた家族。子どもも主張を書いたゼッケンをつけていた。
ベルリン1989
「改革は民主的な新しい面子で!」という主張や、教育改革についての要求が大きな紙に書かれ、地面に並べられていた。それを取り囲んで読む人々。

11月9日の晩。部屋にいるとき、夫がいつものように8時のラジオのニュースを聞き始めた。部屋にテレビがないため、ヒヤリングの練習も兼ねてラジオのニュースを聞くのが日課になっていた。この日は特に、一言も聞き漏らすまいとしてラジオに耳を押し付けるようにしている。聞き終わると、
「なんか東ドイツが・・・・・・海外旅行を自由化すると発表したらしい。国境に東ドイツ人が多数押し寄せて、ついに国境を開けたと言っているようなんだけど・・・・・・」と半信半疑のようす。
「それって、どういうことなの?」
ニュースの内容は、夫のヒヤリングに頼るしかなかった。私はドイツ語を始めてたった2ヶ月しか経っていなかったからだ。9時、10時とニュースを聞き続ける夫。だが、ニュースの内容に確信が持てないようだった。
そこで、同じ屋根の下にいるマリオンに確かめることにした。夜更けに申し訳ないと思いながら、私達は隣のマリオンの部屋をノックしてみた。眠そうなマリオンが出てくると、夫がラジオの一件を尋ねた。すると、
「きっと違うと思うわ。そんなこと、起こるはずないもの」マリオンはきっぱり否定して、テレビで確かめることもなく寝てしまった。
それからが大変だった。気が気でない私は、ラジオにかじりつく夫を見守るばかり。そして、夫の顔がだんだん紅潮してくるのがわかった。