いざ、豊かな西ドイツへ!
地図
プラハを発って車でPLZEŇ(プルゼニュ)まで来ると、西ドイツの国境に近い町、WEIDEN(ワイデン)まであと一息だった。

チェコに暮らしていたころ、西ドイツのワイデンまで、車で買い出しに行った。ワイデンは、プラハのほぼ西約150キロのところにあり、音楽祭で有名なバイロイトに近い人口5万人の小さな町。プラハから行く時は“ピルスナービール”のピルスナーの名前の由来となった町、プルゼニュ(ピルゼン)を通って行った。

チェコは、明日食べる物に事欠くほど困窮してわけでない。だが、冬になると野菜はジャガイモ、タマネギ、ニンジン以外はほとんど手に入らなくなる。衣料品の質は悪く、トイレットペーパーが、ある日突然店先から消えることもあった。日本食が恋しくなれば、やはり買出しに行くしかなかったのである。

ドイツへ出国するには、チェコとドイツの国境で待ち受けているパスポート検査を無事通過しなければならない。検査官が車のトランクを開け荷物を調べる。全員車から降りるように言われ、座席の下に人を隠していないか調べられたこともある。
当時チェコ人やスロヴァキア人には旅行の制限があり西側へ出られなかったため、亡命者がいないか厳しい目が光っていた。時には車列ができて、1時間もかかったチェコ側のパスポート検査が済むと、“やっと西ドイツへ来た!”というホッとした気持ちと解放感があった。

キックボード
衣類のほとんどは西ドイツで調達。チェコの子どもたちが乗っていたキックボードにあこがれていたら、親が西ドイツ製を買ってきて内心がっかり。車輪が小さくて、ブリキのおもちゃのようなチェコ製キックボードが欲しかったのだ。

ドイツに入ると、まるで別世界だった。
きれいに舗装された道路を走るベンツやフォルクスワーゲン。チェコの国産車シコダはチェコで人気があったものの、西ドイツで走っている姿は、おもちゃのように見えた。
壁や屋根の手入れが行き届いた立派な家や、花の咲き乱れる庭。夜のネオンや信号機の明るい光。レストランでは、ウェイトレスが笑顔であるということに感動した。
行列に並ばなくとも、店員に怒られなくとも買い物ができるなんて!“このデパートをまるごと持ち帰りたいなあ”とチェコの友達の顔を思い浮かべながら思った。母は、と言えばチェコの知人に頼まれたジーンズや文房具、フィルムや貴重な薬、食料や衣料品を忙しく買い揃えていた。誰かが西側へ行くと聞くと、お金を渡して“これをぜひ買って来て欲しいのですが”と頼む事は、チェコではごく自然に行われているのだった。

戦争ごっこでドイツは悪役

西ドイツに買い出しに行くのは楽しかったが、私はどうやらチェコ人と同じ目でドイツやドイツ人を眺める習慣が、自然と身についてしまったみたいだ。だから、プラハで見かけるドイツ人観光客は、派手で大声を出す高慢そうな人たちに見えて、チェコ人と一緒に「ほら、ドイツ人だからさ」なんてうわさして、決して好意を抱いていなかった。

ヨーロッパの中央に位置し、近隣諸国に支配された歴史をもつ小さな国チェコスロヴァキア。70年当時は社会主義国ということもあり、“ドイツに占領された第2次世界大戦の悲劇を忘れるな”とばかりに、テレビでよく戦争映画を流していた。子どもにとってはどの映画も、ナチスドイツの残虐さだけが印象に残った。

お隣に住んでいた双子
帰国前のお別れパーティーに集まったチェコの友達や知り合い。2列目真中の女の子イトゥカと右隣のヤルダは、お隣に住んでいた双子。

そんな影響もあってか、プラハで3度目に住んだ家では、隣に住む1歳年上の双子と、なぜか戦争ごっこをして遊んだ。“チェコ少年少女合唱団”に所属する明るい姉のイトゥカに対し、おとなしかった弟のヤルダ。妹も含め、いつも二人ずつ組んで片方がナチスドイツ側を、他方はチェコ人側となった。ナチスの将校と、逃げ切れずにつかまったチェコ人親子というようなストーリー仕立て。悪役は決まってドイツだった。

歴史との不思議な巡りあわせ

000年に、NHKで放映されたシリーズ番組「未来への教室」の字幕翻訳の依頼が来た時のこと。この番組は、各界で活躍する国際的に著名な人物が教師となって中学生に特別な課外授業を行うというものだった。
「チェコフィルの指揮者アシュケナージは、旧ソ連生まれで亡命した音楽家です。アシュケナージ先生がロンドンの中学生にある課題を出します。第2次大戦で、ナチスドイツに焼き討ちにされたリディツェ村の歴史から学んだことを、みんなで曲にし、最後にはリディツェ村の人々の前で演奏します」

番組制作者の話を聞きながら、私の目の前にパーッとある光景が浮かんだ。リディツェ村って、チェコの小学校で社会科見学に行った、あのリディツェ村?
「あそこには昔小学校があって、こっちの方には広場があったんです」と、リディツェ記念館の人に説明を受けたものの、町があったとは想像できないほど、のっぺりとした丘だったという思い出。そのまま野外の処刑場の近くに行った時の怖かったこと……。

「村の男は全員ナチスに家から表に出るように言われ、地面に穴を掘るよう命令されました。掘ると穴の端に立たされ一斉に射殺されたのです。そして、そのまま穴に埋められました」リディツェで聞いたこの話は、私の記憶から消し去られてはいなかった。
ナチスのハイドリヒ暗殺の首謀者を、この村がかくまったという疑いをかけられて、見せしめに村ごと焼き払われたリディツェ村。

この番組の仕事がきっかけになって、さまざまな事が一気に思い出された。チェコとドイツ。チェコで暮らした70年代、80年代。ドイツで過ごした 80年代から90年代のこと。チェコ人の目でドイツを見ていた小学生のヤポンカ。その約20年後の1989年に、東西ドイツを隔てるベルリンの壁崩壊の現場に居合わせるとは、夢にも思わなかっただろう。壁に開いた穴をくぐって西へやってきた見ず知らずの東ドイツ人たちと、肩を抱き合い、シャンペンを飲み交わす自分がそこにいるとは……。これもまた、運命のいたずら、あるいは私と歴史との不思議な巡りあわせとしかいいようがないのだった。