ゆっくりと、確実に月日は流れ

 中学1年の秋に両親と妹が帰国すると、一家は再び東京に住むことになった。片時も忘れたことがないチェコ。でも、友人と手紙のやり取りもないまま時が過ぎ、ただ古い写真を眺める時と、持ち帰った絵本を開く時だけ私は静かにチェコの世界へ浸ることができた。

 ようやくチェコスロヴァキアへ行く機会が訪れたのは、1982年、20歳の時だった。
 1980年からモスクワに住んでいた両親と妹を、大学3年の夏休みに訪ねた。すると、母は思いかげない提案をした。
 「モスクワからプラハまで、寝台列車なら2昼夜で行けるそうよ。鉄道の旅って面白そうだし、思い切って行かない?」
 モスクワからプラハまでの旅は、社会主義時代の国境警備の厳しさに緊張し、アルミの器で運ばれてくるまずいロシア料理にも閉口した。チェコスロヴァキアに入り、プラハまであと少し、という時に隣のコンパートメントが騒がしくなった。チェコ人のグループが、ビールを飲んで気勢を上げていた。息をひそめるようにしていた彼らも、ホッとしたのだろう。列車は時々停車しながら、やがてプラハ本駅へゆっくり入って行った。10歳の時に離れて以来、心の中で思い出は決して色あせることはなかったチェコ。プラハの町並みが見えた時には、私も母もこみ上げるものがあって、
 「もうすぐプラハに着くね……」と言ったきり、後は言葉にならなかった。

再会

 ちょっとすすけたプラハの街の印象は、記憶にあるプラハの街そのものだった。母も市電の窓から、あのお肉屋さんがまだ同じ場所にあるわ、あの辺も変わらないわね、と懐かしそうに指をさす。ビアホールから漏れるどやどやという話し声とジョッキのぶつかる音。アパートから漂う肉の煮込み料理の匂い。店では並んで順番を待ち、品物を店員に言って買う方法も昔と変わっていない。石畳の道路に、赤い市電が行き交う街。

 10年も使っていないチェコ語は錆ついて、簡単な内容なら理解できたが、私からは思うように言葉が出て来なかった。当時、私よりチェコ語が話せた母が頼りで、同級生と会う約束をとりつけてくれた。ミーシャ、エヴァ・パルシコヴァー、マルシカ、ヴラージャ。街中で最初に同級生と再会した時は、自分のことはさておいて、
「え〜っ、ミーシャもエヴァもマルシカも、こんなに大きくなっちゃったの」
と、すっかり大人びたみんなの姿に驚いた。

ミーシャ ミーシャ
1982年、10年ぶりにチェコスロヴァキアを訪れて同級生に再会する。前列にヴラージャと奥さん、後列にミーシャと私。 夏だったので、ビアホールで生ビールを買って外で乾杯!右からヴラージャと奥さん、ミーシャ、母。

 ミーシャは、背がすらっと伸びて、ブロンドのストレートの髪が肩の辺りで揺れる清楚な女性になっていた。再会の喜びをどう言葉で表現したものか、チェコ語を忘れてしまっていることのふがいなさが、自分を無口にさせた。ミーシャは経済学部の学生だった。
 「ミーシャに会いたくて、日本でもよく夢に見たよ」とか、思い出話しをして笑いたいのに、会話が続かない。それでも、気になっていたことをやっと聞くことができた。
「ミーシャ、ドブジーシのハタ(別荘)は?」昔、ミーシャのお父さんが、日曜大工でひとりコツコツと別荘を建てていたことを思い出したからだ。すると、
「ようやくトイレが完成したところよ。シャワーはまだなの」とくったくなく笑った。
 私達姉妹は夏休み、両親が旅行している間、フリーノヴァー先生に預けられ、先生の旦那さんの実家があるドブジーシに滞在したことがあった。偶然にも親友ミーシャの家族の別荘もドブジーシにあって、私達はよく行き来をして遊んだものだった。

苦しさのなかで聞いた声
ミーシャ
10年ぶりになつかしい人の家を訪ねる。ウングロヴァーさん。我が家の大きな洗濯物のお世話などをしてくれ、妹ともども可愛がってもらった。

 間もなく父親になるヴラージャを、同級生と訪ねた時のこと。私はおしゃべりで盛り上がるみんなの様子を、半ば夢見心地で見ていた。一緒に遊んだ日々が、ふとよみがえった。ヴラージャと2人で暗号を作って学校で手紙のやり取りをしたり、放課後はみんなと外で駆け回って遊び、リンゴやナシを木からもいで逃げたこともある。発表会での配役は、私が白雪姫でヴラージャが王子になって冷やかされ、ミーシャは小人だったっけ……。
 ああ、もっと早くチェコに来ていれば! 同級生との会話に加われない自分がもどかしかった。

ミーシャ
お向かいのアパートに暮らしていたギリシャ人のフリディソヴァーさん一家。遊び友達だった次女のアティンカは、この時19歳くらい。すでにユーゴスラヴィア人と結婚していた。

 その時、私の中の小さな固いつぼみが、音をたててはじけたように感じた。自分の思いを伝えられないままでいいのだろうか。子どもの頃チェコで体験したことは、アルバムの写真のようにしまい込んだとしても、その先いったい自分は……。

 10年ぶりの友との再会で、思いを伝えられない苦しさは、やがて伝えられるようになりたいという、強い意志へと変化していった。自分にとってなつかしいチェコは、やはり子ども時分に温かく迎え入れてくれた「心のふるさと」だった。チェコ語をもう一度勉強して、まずは言いたいことを伝えられるようになろう。私を育んでくれたチェコの風土や文化を紹介できたら、それは多くの人への恩返しにもなるかもしれない。“私の中のチェコを忘れないで”、というもうひとりの自分の声が聞こえたようだった。

ミーシャ ミーシャ
母と市電を待っている時、妹の通っていた保育園の園長先生ご夫妻にばったり出会う。 誘われるまま、園長先生のお宅にお邪魔することに。ご自宅は保育園の広い敷地内の一角にあり、お昼ご飯をご馳走になりながら思い出話に花が咲いた。
ふたたびの別れ

 プラハでの2週間の滞在は瞬く間に過ぎた。出発の日、日に1本しかないウィーン行きの国際列車に乗り遅れそうになって、ミーシャとホームを目指して走っていた。ぎりぎりで間に合い、座席に荷物を置くと急いで窓を開けた。
 「ありがとう、ミーシャ。また会おうね!」
 「YUKO、チェコにまた来る?」
 「うん。チェコ語の勉強に来るかもしれないわ」
 「そうなの!? じゃあ、また会えるわね」

 1982年当時、社会主義国チェコスロヴァキアでは、人々は西側諸国へ自由に行き来できなかった。再び会おうと思えば、私がチェコへ来るしかないことは、お互い言葉にしなくてもわかっていた。
 オーストリアの隣国に生まれながら、ミーシャがまだ一度も見たことがない街ウィーンへ向けて、私と母を乗せた列車はゆっくりと走り出した。お互いにずっとずっと手を振るのを止めなかったが、ミーシャの姿はやがてけし粒ほどになって、見えなくなった。